以前、箏の有名曲「六段」について書きました。
「一般的に六段は八橋検校の作とされているが、これは誤りで、
琉球の曲を平調子にアレンジした」 という説がある、というものです。
この記事を書いて以来、ずっと気になって気になって仕方ありませんでした。
この説を唱えた学者さんは、どんな根拠でそんなふうに言っているのか。
早く解決したかった。
出典が古い雑誌のようで、国会図書館にでも行かないと原文は読めないらしい。
でも、国会図書館って手続きとか面倒そうだしなぁ…、
となかなかそちらに足が向きませんでした。
どうしようかなーと国会図書館のサイトを眺めたら、
「お近くの図書館で複写サービスを受けられる」という情報が載っているじゃありませんか。
いいじゃない。早速利用することにしました。
簡単に手続きできるものと思っていましたが…、この方法もなかなか手間かかりました。
この話はまた別のところで。
手続きから1週間。手元に例の雑誌のコピーが届きました。資料の詳細は次のとおり。
論題 :「日本歴史講和 ―六段曲は誰の作か」
著者 :田辺尚雄
雑誌名:日本音楽(日本音楽社発行) 通号21(1949年10月) 10~11ページ
概要(超訳で):
江戸時代の記録に「八橋の作だ」とはっきり銘記した記事がなかった。
「八橋の作」としているのは明治以降の書物に限られ、
しかも「音楽取調掛時代」から始まっている。
この時代の調査研究はかなり独断的・空想的で誤りが多く、信用できない。
ある江戸時代後期の書物に「六段は北島検校(八橋の門弟)の作」と記してあるが、
これも信用できない。
北島の没後に書かれた最古の箏曲書には六段の名がなく、
八橋は組歌13曲を作っただけで、六段のような器楽曲を作ったとは記されていない。
八橋の作曲様式を検討すると、六段のような主題発展の形式を持つ純器楽曲を
作り得る人物ではない。
八橋は筑紫流(箏曲の初期の流派)から組歌を変形をしただけの仕事をなした人であって、
決して六段のような立派な器楽曲を作り得た人ではない。
また、六段の形式組立法から見て、いきなり「六段」という曲ができるはずがない。
まず「一段」という曲があって、二段、三段、四段、五段、六段が出現するはずだ。
琉球には、一段(瀧落菅攪)、二段(地菅攪)、三段(江戸菅攪)、四段(拍子菅攪)、
五段(佐武也菅攪)、六段(六段菅攪)、七段(七段菅攪)の7つの器楽曲がある。
六段菅攪は全く本土の六段と寸分の差がない。
ただし調子は平調子ではなく、古い筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっている。
古典的な手法が用いられており、左手法も古風で単純。
従って六段は琉球の方が素で、本土の方が後であるように言える。
問題は琉球の箏曲の起源がどこにあるかということ。
琉球では八橋流としているが、それ以前の筑紫流だと思われる。
<結論>
1 六段の作曲者は不明
2 八橋でないことは確実
3 琉球の六段の方が古い
4 琉球の六段はどこから来たか分からない
よって、おそらく六段は琉球から本土に伝えられ、
八橋の弟子である北島あたりが、平調子に改めて普及させたのではないか。
ふーん。なるほど。でも、なんか釈然としない。
六段は琉球から本土に伝わったというところの持ってきかたが、ちょっと強引なように感じる。
なんで琉球を経由しなくちゃならなかったのかなぁ。
箏曲の最初期の流派である筑紫流は、その名の通り福岡県あたりで起こったのですが、
八橋流の京都へは琉球より近い。同じ本土の中だし。
筑紫流(福岡)→八橋流(京都)の伝達ルートって考えられないのかしら。
筑紫流に六段の原型があったかも。筑紫流の資料にそのことがまだ見つからないだけで。
筑紫流→八橋流、筑紫流→琉球、と2方向に伝播したと考えも否定できないのでは?
もしかしたら、その辺の解説が違う資料に載っているのかもしれないけど…
六段の調査は、もうこのくらいで勘弁してください… これ以上深みにはまったら大変です。
それにしても田辺先生、八橋検校をメッタ切り。
「六段みたいな世界的名曲を八橋みたいな者が作れるわけがない」だなんて。
八橋検校さんのイメージが変わりましたよ。
これからお菓子の八橋を見るたび、今回のこの話を思い出すんだろうなぁ。